鎌倉と戦争のページ 更新日 2015年7月11日
私たち年金者組合鎌倉支部では、年金受給者で作っている会です。私たちが体験してきた戦争と戦後の時代を振り返りながら、若い人たちと一緒に平和を考えていきたいと考え、組合員の皆さんから広く戦争と戦後の体験をつのり、2011年に小冊子『鎌倉と戦争・生きてきたを伝える』を刊行しました。
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そのとき、私たちの住んでいる鎌倉にも、戦争の爪痕が残されていることを知りました。同時にこの爪痕は、急速に失われつつあることもわかりました。今、鎌倉の戦争の爪痕を訪ね、記憶に残し、次の世代の人にたたえていくことが必要であると痛感しています。
そこで、2012年から毎年1回、「フィールドワーク・鎌倉の戦跡をめぐる」を実施することにしました。第4回目となる今年は、8月23日に、深沢地区を訪ねる予定です。
わたしたちは、フィールドワークをこれからも続けていきたいと考えています。鎌倉にはまだ知られていない、防空壕跡や陣地跡があるかも知れません。お心当たりの方は、会までご一報下さい。また、訪ねてみたい地域がありましたら、ご希望をお寄せ下さい。お待ちしています。
2014.8.5 第3回 「玉縄城下に太平洋戦争の戦跡を探る」
8月5日(火) 「鎌倉と戦争」を現地に探るフィールドワークも三回目をむかえ、今年は鎌倉市の西北に広がる玉縄地区を訪ねました。ここは戦国時代に後北条氏の玉縄城が築かれ、上杉謙信の猛攻にも落ちなかったという名城があったところですが、今回の戦跡巡りは戦国時代のことではなく、太平洋戦争の戦跡のことです。
当日は、この夏一番の暑さという中、約50名の方が参加し、3時間近い「行軍」に耐え、終わりに玉縄すこやかセンターで、東京で大空襲を経験した仲築間ミキさんの話を伺い、身近なところに戦争の場所があり、身近なところに戦争を体験した人がいると言うことを、改めて実感した一日となりました。次の日は69回目の広島原爆投下の日。今こそ戦争を忘れない、そして二度と戦争をしてはいけないという思いを新たにしました。
集まった皆さん 龍宝寺山門前
案内の関根さん、椎野さん
今回は、玉縄歴史の会の関根さん、椎野さんに案内していただきました。お二人とも戦争中から玉縄にくらし、その変遷をよくご存じの方です。とくに関根さんは、年金者組合鎌倉支部が2012年に発行した『鎌倉と戦争ー生きてきたを伝える』に大船捕虜収容所付近での少年時代の思い出を「白いどろどろ」という印象深い一文として寄せていただきました。今回はその貴重な体験した場所を実際に案内していただきました。
フィールドワークの行程
龍宝寺山門前で玉縄城の説明
・龍宝寺と大船捕虜収容所跡へ
9時、玉縄の龍宝寺山門前に集合。龍宝寺はかつての玉縄北条氏の菩提寺で、このあたりで最も格式の高い寺院です。後北条氏の玉縄城はそのほとんどが失われていますが、最近「玉縄歴史の会」などの努力で整備が進んでいます。しかしこの城の周辺に、太平洋戦争の爪痕が残されていることはほとんど知られていません。また宅地開発によってその多くが失われてしまいました。
あまり知られていませんが、この龍宝寺の門前に、太平洋戦争中に、捕虜となったアメリカ軍兵士を収容する「大船捕虜収容所」があったのです。
左 団野功雄中尉の忠魂碑 右 アメリカ兵捕虜の卒塔婆
山門を入ってまもなく右手に見える石碑は、龍宝寺先代住職団野弘之氏の実弟で、昭和19年10月29日にフィリピン沖で神風特別攻撃隊至誠隊長として戦死された団野功雄海軍中尉を顕彰する石碑です。団野中尉は24歳でした。
そして、境内の片隅に人知れず小さな卒塔婆がたっています。それは大船捕虜収容所で亡くなったアメリカ兵を供養するためのものでした。亡くなったアメリカ兵は収容所の一角に墓が作られ、戦後、遺骨は母国に帰りましたが、龍宝寺ではその供養を続けています。太平洋戦争の犠牲となった日米の若者が、隣り合って祀られているわけです。
捕虜収容所のあったあたり
「大船捕虜収容所」は、昭和17年4月に海軍が設置したが、秘密であったため名称は「横須賀海軍警備隊植木分遣隊」とされていました。海軍は捕虜となったアメリカ兵から主としてレーダーに関する情報を聞き出そうとしたといわれています。関根さんのお話では、捕虜と住民の交流もあり、運動会が開かれたこともあったそうです。昭和20年9月1日まで、延べ500人が収容され、6名が収容所内で死亡しました。
・軍需工場跡と横須賀水道道
現在、広大なショッピングモール・コーナンとなっているところは、かつて軍需工場があったところです。昭和17年に完成した昌運工作所で、本来は工作機械の製作所でしたが、軍の依頼により艦載旋盤の製造を開始しました。戦局が激しくなり、爆撃を恐れ、向かい側の「象の鼻」といわれた山に大きな防空壕を掘り、機械を避難させました。現在は造成が進み、防空壕は残っていません。
柏尾川沿いの南岡本バス停脇信号から湘南鎌倉総合病院前に延びる直線道路は「横須賀水道道」と言われています。昭和14年に、横須賀海軍基地の水の需要が増大したため、相模川の海老名取水口から横須賀市田浦の配水池までの送水管敷設工事が始まりました。しかし終戦までは完成せず、昭和20年の11月にようやく送水を開始、昭和24年には国から横須賀市に無償譲渡されました。現在も直径1mの鋳鉄管の水路が道路下に埋設されており、横須賀市水道局の標識を認めることができます。
左 昌運製作所跡(現在のコーナン) 右 横須賀水道道(岡本)
・久成寺忠魂碑と城宿稲荷社(元奉安殿)
玉縄城本丸跡に登る急坂、ふあん坂のふもとにある日蓮宗久成寺(くじょうじ)には、大きな忠魂碑が建てられています。これは昭和4年、日清・日露戦争での戦病没者の慰霊のため、遺族会・玉縄青年団が建て、戦後の昭和28年に太平洋戦争の戦病死者を追加して130名の階級と氏名を彫り、建て直したものです。
玉縄城本丸跡の西方、城廻の住宅地となっている一角に、ぽつんと小さな社が建っています。この「城宿(しろじゅく)稲荷」は昭和46年に周辺開発に伴い、社地を10m切り下げて、その時に玉縄小学校校庭にあった「奉安殿」を譲り受けて改装し、翌年に旧城宿村村社とされたものです。奉安殿とは戦前の学校で、天皇・皇后の写真と教育勅語を安置しておくために作られていたものです。忠魂碑と奉安殿は戦争の時代を伝える遺物の一つと言えます。
左 久成寺の忠魂碑 右 住宅街の一角の旧奉安殿
高射砲陣地のあったあたりを遠望する
・桐ヶ谷高射砲陣地跡
城廻の宅地開発から免れた打越小字桐ヶ谷戸には、今も緑と古い道が残され、昭和30年代までの玉縄を彷彿とさせてくれます。桐ヶ谷戸の奥には玉縄城の「お花畑」がったあたりから延びている尾根がありますが、その尾根を削り、高射砲を据える壕が作られています。壕の開口部は相模湾から上陸する敵に備えて南西に向いており、奥は砲弾の補給のために抜けていました。今は、すべて埋められて何も残っていません。
なお、第1回で訪ねた、岩瀬の大長寺の脇にも高射砲用の壕があります。これも同じように、相模湾にアメリカ軍の上陸を想定して、作られたものと考えられます。
真夏の行軍(桐ヶ谷戸)
このあと、関谷インターに残る銃眼跡と、横須賀と厚木海軍飛行場を結ぶために作られた「海軍道路」を訪ねました。
このフィールドワークは、ケーブルテレビ鎌倉の取材があり、翌日の8月6日、7時からのニュースで紹介されました。
まとめの集会
戦跡を訪ねた後、玉縄すこやかセンターで、案内をしていただいた関根さん、椎野さんを囲んで、質問の時間を設けました。鎌倉に住んでいるけれど、戦争の遺跡があることは知らなかった、鎌倉と戦争の記録は残されているのか、などの質問が出されました。戦争遺跡については、湘南鎌倉生涯現役の会(CPCの会)が調査した鎌倉の戦跡の記録、年金者組合鎌倉支部が発行した『鎌倉と戦争』などがあります。
案内をしていただいた関根さん、椎野さんへの熱心な質問
・わたしの戦争体験 仲築間みきさんのお話
つづいて、仲築間みきさんから「わたしの戦争体験」と題してお話を聞きました。仲築間さんは年金者組合の組合員で今年84歳、満州事変の前年に生まれ、少女時代に王子兵器工場で鉄砲の弾づくりに動員され、東京の空襲に遭い、新潟に疎開しました。戦後は厳しい食糧難を体験し、お仕事を続けてこられました。今回は、次世代のために、いま戦争体験を語り継ぎたいという熱意から貴重な話をいただきました。
仲築間みきさん(右)から
空襲体験のお話を聞く
東京・足立区の旭尋常高等小学校にも「奉安殿」(今回、旧玉縄小学校の旧奉安殿を見ることができました)があり、朝礼の時には必ず全員で頭を下げさせられ、意味も分からない教育勅語を暗記させられました。
女学校では勉強らしい勉強はわずか一年で、畑作業やゲートルをまいて敬礼の練習をさせられました。王子兵器(王子製紙工場が兵器工場になっていた)で鉄砲の弾づくりに動員されましたが、女の子の造る弾ですから、8割が不良品だったそうです。
熱心に話を聞く皆さん
1945年5月、住んでいた赤坂一帯も空襲を受けました。走って逃げる数十メートル後ろに焼夷弾が落ちた。防空壕の入り口には黒こげの死体。防火用水の水を被って永田小学校の鉄筋コンクリート校舎に逃げ込み、何とか助かったそうです。その後に疎開した新潟では、B29によって大量のビラがまかれ、「次は新潟だ」と書かれていました。広島・長崎の「新型爆弾」の恐ろしさが伝えられ、子供やお年寄りは市外に逃れたそうです。
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今回は参加者が多かっただけでなく、若い人たち、お子さんたちもおじいさんといっしょに参加されたということが特色でした。「昭和一ケタ」の皆さんもお元気で参加されました。このような機会に、戦争の記憶を身近なところから掘り起こし、伝えていくことがこれからますます求められるでしょう。
私たち、年金者組合鎌倉支部も「戦争を許さない世の中」を守るために、地道にこの活動を続けていきたいと考えています。鎌倉市内のまだ知られていない戦争遺跡をご存じの方、またはこの会に対するご意見などをぜひお知らせ下さい。
2013.8.6 第2回 「台・山崎に戦跡を訪ねて」
8月6日(火) 第2回フィールドワークは、台・山崎地区でを実施しました。朝の雨も上がり、晴天に恵まれ、32名が参加しました。現在に残る旧富士飛行機工場の建物、現在は高層マンション街になっている工場跡地、ついでに北大路魯山人の旧居を訪ねました。最後に斉藤悦子さんの疎開体験をきき、12時に終了。広島原爆の日に、あらためて平和の意味を考える一日となりました。
集合場所 富士見町やまかストア前
講師の神戸さん
神戸治男さんは地元の山崎に生まれ、子供のころまだほとんどが田んぼや森だったこの地域で遊んでいたそうです。
その後、鎌倉市の中学校社会科教諭となり、岩瀬中学で中3生に「鎌倉の戦争遺跡」をとりあげ、詳しく調べたそうです。
今回は講師を務めていただき、思い出も含め、興味深いお話を多数聞かせていただきました。
旧富士飛行機工場跡 現東京スリーブ
東京スリーブ 玄関
湘南モノレール・富士見町駅から江ノ島方面にむかって左側、旧湘南鎌倉病院から奥に入った一帯は、旧富士飛行機の工場があったところです。1937(昭和12)年に低い山を切り崩し、水田を埋めて平地を広げて工場にしました。富士飛行機は中島飛行機の関連会社で、主として練習機(九三式中級練習機、通称赤トンボ)を組み立て、後には特攻機「桜花」「秋水」の一部も作っていたらしい。
戦後、富士飛行機は平和産業に転換したがまもなく倒産し、自動車部品メーカーの東京スリーブなどが1949年に工場を引き継ぎました。飛行機工場の建物は現在も東京スリーブが使用しています。上の写真はその玄関で、昭和10年代の建築がほとんどそのまま使われており、戦争中の飛行機油と学徒動員の工員たちの汗がしみこんでいます。
左 現在も稼働中の工場 右 工場の外観
左 当時のままの玄関の蛇腹 右 内部の木造階段
高射砲陣地を遠望
工場屋上から見た高射砲陣地
旧富士飛行機工場の屋上から東の方角に見える小高い丘にはかつて高射砲陣地が置かれていました。工場に勤務していた方のお話では、一機堕とすと一週間の休暇がもらえたといいます。
この付近の深沢には海軍工廠深沢分工場もあり、富士飛行場も含めた大船一帯はアメリカ軍の爆撃対象であったと思われ、アメリカ軍の航空写真も残されています。戦争が長引いていたら、鎌倉も爆撃を受けたであろうことが充分考えられます。
旧青年学校付近
現こもれび前の公園
富士飛行機工場で働いていた人の談話記録によると、昭和16年頃の工場には2000人ぐらい働いており、宮城や福島からの徴用工の他に、北鎌倉女学院や鎌倉学園の学生も動員学徒として働いていた。多くの少年工のために、青年学校が建てられ、その周囲に「忠」「孝」「義」という名の三つの寮があった。
ちょうど写真のあたりが青年学校の食堂があったところ。現在はまったくその面影はなく、地域スポーツ施設こもれびの前の公園として整備されています。この前にあった旧大船病院は、飛行機工場に付設された病院でした。青年学校や寮の跡地は戦後、国鉄の社宅になり、案内役の神戸さんは国鉄寮で生まれたそうです。<以上、「鎌倉・太平洋戦争の痕跡」鎌倉市中央図書館近代史資料収集室・CPCの会編を参考にしました。>
北大路魯山人旧跡 現山崎小学校
山崎小学校
現在の山崎小学校のある一帯は、陶芸家・書家・美食家として知られる北大路魯山人が、大正14年から昭和34年まで暮らしていた家と広大な敷地だったところだそうです。山崎小学校のグランドに隣接した一角が母屋の春風萬里荘があったそうですが、現在は宅地になっており面影はありません。
また小学校の正門付近はかつて彫刻家イサム・ノグチと山口淑子がすむ家があったそうです。
現在の山崎小学校は1970年、魯山人の敷地の一部と廻りの田畑を平地にして建てたそうで、付近にある小袋谷方面に抜ける切り通しが、かすかに昔の名残りを感じさせます。
疎開経験のお話 斉藤悦子さん
終わりにレーベンスガルテン集会室で、斉藤悦子さんから疎開経験のお話を伺いました。斉藤さんは鎌倉で長く保育園園長を務め、活躍されてきた方です。東京で暮らしていましたが、戦争末期、ご両親と別れ、縁故疎開で岡山に移り、小学校をすごされました。
疎開前の東京の小学校で、修身の時間に、教育勅語の暗唱よりも昔話を読んでくれた先生がいたそうです。こどもごころに大好きな先生に何かあるといけないから、家では黙っていたそうです。その一方、疎開先の小学校では、仲良しになった友達と一緒に帰ってはいけないという先生がいました。あとで聞いたらいわゆる部落の子だったそうです。疎開先のおばさんは、一緒に帰っていいよと言ってくれて嬉しかったそうです。
また、新しい憲法ができたとき、天皇は象徴になった、と聞きました。子供心に、戦争中はみな“天皇陛下のために死のう”と言っていたのに、象徴になったのはどうしてだろうと疑問に思い、先生に聞いたところ、「象徴」というのは中学生の男の子がかぶる学帽についている徽章みたいなモノだよ、と説明してくれたそうです。などなど、興味深いお話を伺い、参加者の質問や意見をだしあって、なごやかながらも平和の意味を確認して終わりました。
8月7日 東京新聞に掲載されました
2012.8.6 第1回 「北鎌倉に戦跡を訪ねて」
8月6日(月) この日は「北鎌倉に戦跡を訪ねて」をテーマにフィールドワークを実施しました。炎天下にもかかわらず35名が参加し、ひっそりと残されていた戦争末期の陣地構築跡を訪ね、この広島原爆の日に、平和の誓いを新たにしました。
集まった皆さん 明月院入口
講師の平田さん
『鎌倉と戦争・生きてきたを伝える』に寄せられた証言から、この鎌倉の地も戦争と無関係ではあり得なかったこと、また鎌倉にも戦争末期の「本土決戦」にそなえ陣地構築が行われたことを学びました。NPO活動の助成を受けたことを機会に、鎌倉に残る戦争の爪痕を、実際に訪ねてみようというのが今回の企画でした。
講師には平田恵美さん(鎌倉市中央図書館近代史資料室)と、神戸治男さん(元岩瀬中学社会科教諭)のお二人にお願いしました。
フィールドワークの行程
明月院入口
・明月院入口から浄智寺へ
9時、円覚寺正面に集合。目の前で境内を横切っている、海軍のための軍用路線であった横須賀線を右手に、明月院入口へ。道路から数メートル上の藪の中にぽっかりと横穴が見える。またその右手には、現在宅地造成のため古い家屋が取り壊されたため、横穴陣地への入口が二ヶ所、姿を現していた。ここは宅地造成が終われば、見ることは出来なくなると思われる。
浄智寺山門脇の駐車場
続いて横須賀線をはさんで浄智寺境内へ。山門を入って右手にある駐車場に面した山の斜面に横穴がある。これらの横穴陣地は横須賀線沿いに進攻する敵に備えたものか。
かつては入口まで階段があり整備されていたが、現在では草が生い茂り、入口も塞がれている。穴は途中までしかなく、終戦で工事が中断されたらしい。
・洞門山
次に横須賀線沿いに大船方面に向かう。途中の雲頂庵入口から洞門山付近にかけては、横穴陣地や銃眼の跡がたくさん残っていたと言うが、現在ではほとんどがコンクリートで閉ざされている。写真左、線路際の崖の上に、コンクリートブロックの一部に銃眼の跡を見ることができる。写真右は旧好々亭入口のトンネル。中間の左右に現在は塞がれているが、横穴の入口がある。
左 洞門山の銃眼 右 旧好々亭入り口
・成福寺と亀の甲山
小袋谷成福寺・亀の甲山では地元の元町内会長生知義正さんにご案内を頂いた。写真左は成福寺境内の東郷平八郎揮毫の忠魂碑。もとは小坂小学校にあったものを、戦後にこの地に移した。その脇に戦没者慰霊碑があり、西南戦争から太平洋戦争の戦死者まで二百人以上の人名が刻まれている。
お寺の裏山である亀の甲山は特殊地下壕があったところ。生知さんも子供のころは遊び場にしていたと言うが、昭和30年代からの宅地造成のため、塞がれている。写真右、生知さん(中央)が説明しているあたりの地下に、最近の再造成で、ポッカリと大きな壕が現れたが、コンクリートで埋め戻され、今はまったく見ることができない。
左 成福寺の忠魂碑 右 特殊地下壕のあった亀の甲山
大長寺隣の民家の裏庭
・大長寺とその付近
その後、約1時間歩いて岩瀬の大長寺へ。鎌倉街道沿いで現在の鎌倉の北端にあたる地であるが、その左手の民家の裏と大長寺境内には今も横穴がいくつか口を開けている。その反対側の鎌倉街道に面した崖にもぽっかりと大きな口が開いており、現在では防火用水となっていて、奥の方は暗くて見通すことはできない。これらも相模湾に上陸した敵が北上してくるのに備えた陣地として構築されたという。
鎌倉街道に面して横穴が開いており、大長寺の横穴と繋がっている
まとめの集会
平田さん
平田さんは、今までの湘南鎌倉生涯現役の会(CPCの会)が調査した鎌倉の戦跡の概況について説明され、空襲を受けなかったとされる鎌倉でも、相模湾からのアメリカ軍上陸を想定して、各地に陣地が構築されたとのお話しでした。しかし、今回同行されて、遺跡がかなり変貌し、それとは分からない状態になりつつあることに危機感を持ったとのことです。私有地にある場合は難しいとしても、例えば中央公園の夫婦池にある横穴陣地などは、戦争を風化させないためにもきちんと保存し、誰でも見れるようにしておく必要があるのではないか、と指摘されました。
神戸さん
また、長く岩瀬中の社会科の先生だった神戸さんからは、鎌倉にもこんなに戦跡があるんだよ、と授業で取り上げたときの子どもたちの驚きが紹介されました。今日見た横穴陣地跡だけではなく、鎌倉市内は深沢の海軍工廠(魚雷などを造っていた)、冨士飛行機(戦闘機、練習機の製造)など、軍事工場があり、爆撃予定地に入っていたのでした。中学生にも、アジアの国々での日本の戦争、広島や沖縄を学習することとともに、身近なところでの戦争を考えさせていきたい、とのお話しでした。
岩瀬公会堂で話を聞く参加した皆さん
今回、人家の裏山や、道路の藪の陰でひっそりと人に知られずに残されていた、いくつもの陣地跡を見て改めて感じたことは、戦争を風化させてはいけないと言うことでした。現在の私たちにとっては「戦争の爪痕」にすぎなくとも、その時、炎天下で壕掘りに動員された若い兵隊たち、食べ物が無く疲れ切った兵隊におにぎりを差し入れた近所の人たちの思いが、ひんやりとした岩壁の爪痕や、洞窟の奥から伝わってきました。そして、空襲におびえ不安な夜を送った母子の思いを、これらの遺跡は思い起こさせてくれます。
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今必要なことは、鎌倉は文化財があったから爆撃から守られた、という呑気な思いこみではなく、もし戦争が続いていたら、この地も戦場になったであろうこと、「本土決戦」になれば家も横穴陣地も火炎放射器で焼かれたであろうことなどの「もしも」を「想像」してみることことだと思います。
参加された皆さんからは、「広島の日にとても良い企画だった」、「普段見すごしていた身近なところに、こんなに戦争の遺跡があることを知り、びっくりした」、「年金者組合らしい取り組みだ」などの感想を頂きました。年金者組合としては、この活動を今後どのように継続していくか、考えていきたいと思います。参加した皆さん、今回は参加できなかった皆さんも、ぜひご意見・ご感想をお寄せ下さい。