泣塔が泣いている①2026年2月2日、年金者組合員の福田静さんから、深沢再開発地域にある「陣出の泣塔」が大変なことになっている、との情報が入りました。さっそく2月3日に行ってみると、泣塔のある丘は樹木が伐採されただけでなく、ブルトーザーで崩され、見るも無惨というか、情けない姿になっていました。深沢再開発に地域に入っているので、周辺の整備は想定されたものの泣塔のある丘は残されると思っていたので、びっくり。改めて翌日も現状を撮影してきました。
ただし、「陣出の泣塔」といっても鎌倉観光のスポットになっていたわけではないし、普段から市民に公開されていたわけでもないので、地元の人以外には殆ど知られていないのでは無いか、と考え、「泣塔」とその周辺のかつての写真を掲載し、いかに鎌倉市が文化財と緑をないがしろにした「整備事業」を進めているか、知っていただきたいと思います。
2020年1月5日 深沢多目的スポーツ広場 少年ラグビーの合同練習。左手に富士、中央の山は藤沢の旗立山(宮前御霊神社の裏手。前九年の役の時、源頼義が旗を立てたという山)、遠くに丹沢の山々。右手のこんもりした森が泣塔の森。子どもたちの親御さんたちが見に来てます。

今年、2026年2月3日に撮影した、上と同じアングル。深沢多目的スポーツ広場は「深沢再開発」(新市役所建設予定地?)となって閉鎖され、子どもたちの歓声は聞こえません。富士山と旗立山は変わっていませんが、右側の泣塔の森は無くなってしまいました。
泣塔のある森はどんな様子だったのでしょう。2015年に撮影した写真をごらんください。
①スポーツ広場入り口から眺める(2015/10/23撮影)。

このころも金網で囲まれ、市の教育委員会の許可が無いと入れませんでした。
②鬱蒼とした木々のなかに泣塔が立つ(2015/10/23撮影)。
③陣出の泣塔(2015/9/16撮影)
陣出の泣塔」の歴史的価値
この石塔は宝篋印塔(ほうきょういんとう)という形式で、五輪塔などと並んで、平安末期から江戸時代まで、お墓、または供養のために建てられたものです。宝篋印塔は鎌倉のあちこちで見ることが出来ますが、これは高さ2.2mの大型で、典型的な宝篋印塔です。。
この石塔が重要なのは、大型で端正なその姿と共に、「文和5年」という年代が刻まれていることです。それは鎌倉幕府が滅亡してから23年目の西暦1356年、南北朝時代にあたります。文和は北朝で使われた年号であることも興味深いのですが、年号が判明しているケースは少ないので、この石塔は鎌倉市指定文化財建造物33のうちの1つに加えられています。宝篋印塔の側には「やぐら」があり五輪塔が数基が置かれていて、中世の文化の貴重な遺跡であることは間違いありません。
この石塔のもう一つの貴重なところは、「願主行浄」という造立者の名前が判明していることです。この人物については詳しいことは判っていませんが、他に余り例のないことです。
洲崎の合戦
このあたりは「陣出」という地名からも判るように、鎌倉幕府を倒そうと押し寄せた新田義貞などの軍勢に対し、北条一族の赤橋守時が鎌倉を守るべく陣を敷いたところ、と伝えられており、このときの「洲崎合戦」で敗れた守時ら北条方の死者を弔うために建てられたのがこの石塔ではないか、と考えられます。近くの等覚寺にもこの時の供養塔と思われる多数の五輪塔が残されています。
写真④は近くのモノレール下に佇んでいる「洲崎古戦場碑」です。このあたりは鎌倉幕府滅亡の時の血なまぐさい戦場だったのです。
④洲崎古戦場の碑
「泣塔」の伝説は生きている。
ところでなぜ「泣塔」といわれるのでしょうか。それには不思議な話があります。
昔、この地にあったこの石塔を、手広の青蓮寺(鎖大師)に移したことがあったそうです。ところが夜な夜な泣き声が聞こえるので、和尚がよく聴いてみると、元のところに戻してほしいと訴えているのでした。そこで青蓮寺の和尚がこの地に戻したら泣き止んだので、そのときから「泣塔」といわれるようになったそうです。
ところが不思議なのは、この石塔には現代でも次のような話があります。この地は昭和18年に海軍工廠の魚雷製造工場となり、この塔も撤去しようとしましたが、村人のうわわにある塔のたたりを恐れて、そのままにしました。戦後には国鉄の車両工場となり、拡張工事のためこの塔を動かしたところ、その工事にあたった人たちに、次々と不孝な事故が起こったそうです。
ここでこの石塔は動かしてはならない、という伝説が再生されました。この話は鎌倉ではよく知られた話なので、鎌倉市役所の皆さんが知らないはずはありません。さて、今度の工事に携わった人たちに不幸な事故が起こらなければ良いのですが・・・・。それでなくとも深沢再開発を前に、泣塔はどうなってしまうのでしょう。泣いているのは泣塔自身かもしれません。
泣塔前がスポーツ広場だったころ、2020年正月の写真です。
⑤泣塔前の広場の賑わい(2020/1/5撮影)
⑥車の背後に見える泣塔の丘(2020/1/5撮影)
子供送迎のための臨時駐車用。この賑わいはもう見られません。
泣塔が泣いている②2月3日と4日、モノレール深沢駅からほどちかい、「陣出の泣塔」を訪ねました。まず、ホームから北方を遠望すると、かつてスポーツ広場だった空き地の北に何やら岩の固まりが見えます。すでに樹木が伐採されて丸裸になった、泣塔のある丘でした。駅から降り、深沢再開発事業の整備のため立ち入り禁止の金網に添って、中には入れそうな所を探しましたが、ありませんでした。
やむなく、金網越しや背伸びして上からカメラを構え、なるべく近くまで行ってみました。4日には望遠レンズでできるだけアップにして撮影。近くの市営住宅のある丘に登って、撮影しました。ごらんください。
①モノレール深沢駅ホームより遠望
②金網に遮られる
③ここはアメリカ西部の荒野か?
④深沢再開発事業の掲示
⑤泣塔は檻の中でした。
⑥鎌倉市の掲示
⑦「整備」の全貌。
⑧裏側では竹林の伐採
⑨富士と「泣塔」。
⑩囚われの泣塔
⑪市営住宅から見た「泣塔」の丘。
⑫同上
鎌倉市文化財課の回答2月4日(水)、上のような現状を確認してから、鎌倉市文化部文化財課に、このようなことになった経緯と今後について、問合せの電話を入れました。課長および担当者は不在でしたが、電話に出た職員は丁寧に答えていただきました。
なぜこのような樹木の伐採を行ったか、については、
・泣塔のある岩山に樹木・竹が生い茂り、根が食い込んだため、岩盤が崩壊するおそれがあったので、「防災」の観点から樹木・竹林を伐採した。
・これは、深沢地区再開発事業にかかわる「整備」の一環である。ただし「泣塔」の整備に関しては文化部文化財課が担当した。
・今後については、泣塔を移動させることは無く、安全性を最優先して周辺を整備する予定である。
との回答でした。すでに伐採が終わっており、原状復帰は困難であることを踏まえ、次の補足質問をしました。
・岩山が崩壊するという根拠は科学的に証明されているのか。また、仮に崩壊のおそれがあるとしても、樹木・環境を生かして、現在の技術で岩盤を強化するなどの方法は採れないのか。 → 市の回答。判らない。検討していない。
・鎌倉市の市民憲章には「鎌倉の史的遺産を破壊から守り後世に伝える」とある。また「鎌倉緑の緑の計画」には緑の資産を生かす必要があるとして、市民にもむやみな伐採を禁止している。今回の処置は、これらの基本理念に反する行為では無いのか。 → 市の回答。回答できない。上司に伝える。
・今回の歴史的な景観の変更に関して、鎌倉市民・深沢地域住民に充分な事前説明をしたのか。 → 市の回答。良く判らないがしていないと思う。
以上が主な電話の内容でした。
景観を含めた文化財の保全を!
鎌倉市の考えは指定文化財である「泣塔」そのものは保全するとして、その周辺は危険なので「防災上の観点」から整備した、という事のようです。しかし、文化財はその立地する周辺環境を含めて保全を図るのが当然であり、今回のような樹木の全面伐採は歴史的に価値のある景観を著しく破壊する行為として許されないことではないでしょうか。
また、この地は現在の当局が進めようとしている深沢再開発事業の中心的な部分である、市役所移転の移転先とされていることが、開発優先で文化財保護が軽視されている背景なのではないか、と感じられます。
写真に見るように、泣塔は檻に入れられて保護されながら、それが立つ岩山はすっかり丸裸にされ、おそらく残った岩も危険だからということで撤去され、将来は人工的な石垣や階段が整備されることになるのでしょう。はたしてこのような「整備」が鎌倉市民にとって必要で、良いことなのでしょうか。洲崎古戦場を含む歴史的な景観を、もっと大切にする必要があると思います。
⑪最後に伐られた「泣塔」の木

この写真は、泣塔の森の最後に残った樹木を2月初めの夕方、寺分にお住まいの福田静さんが撮影した写真です。
貴重な写真を提供していただいた福田さん、ありがとうございました。
旧前田邸洋館前 解体をやめさせよう②鎌倉市は9月から長谷の旧前田邸洋館前の緑地で発掘調査を実施しました。11月16日、現地で鎌倉市による説明会が午前、午後に分けて行われたので、午前の部に参加しました。発掘地点は洋館前の緑地の樹木を伐採し、A・Bの2地点で行われました。
A地点の全景。正面が旧前田邸洋館。
A地点から東側(奥)を見る。この先にB地点がある。
手前に伐採された樹木が見える。
A地点に見られる、版築の様子。
版築とは、建物を建てるための地ならし作業のことで、写真で判るように薄く何層も版築作業が行われたことが判る。相当な手間をかけて作った建物があったことをうかがわせる。
A地点は、市がカフェを建設する予定地で、予定建物の範囲のみを発掘している。担当者との説明では、見えている地面が鎌倉時代のものという。これ以上掘り下げたり、範囲を拡げる予定はない。
B地点の全景。
B地点で出土した柵列。
柵列はB地点を斜めに横切っており、等間隔の大きな柱穴と小さな柱穴が並んでいる。おそらく建物の周囲にめぐらされた塀のような建造物があったのであろう。そのどちら側が構内なのかはにわかに判定できない。地点Aに見られる二本の溝と、ほぼ直角に交わっていたことが想定される。。
B地点は、A地点の東側に並んでおり、市の計画では文学館入場者のための発券所などの事務棟を建設する予定地という。かつてここは、文学館へのエントランスに面した、樹木の茂る緑地だった。隣接するカフェとあわせたモダンな建物になるようだが、はたしてこの景観に合うのだろうか。文学館事務棟が必要なら、現在ある旧前田邸洋館を利用すれば良いのに・・・。
発掘地点からは青磁の破片や土器、瓦の破片が出土したが、いすれもこの遺跡が寺院跡であることの証明になる物はなかった。
この地は古い地名で「長楽寺谷」といわれ、一般に現在大町にある安養院の前身の「長楽寺」があったとされている。今回の発掘では、長楽寺跡であるという確証は得られていない。鎌倉市の説明会でも発掘担当者は「長楽寺跡」とは明言しなかった。
はたして長楽寺跡かどうかは、現在のところ文献上でも判明していない。鎌倉時代の文献には『吾妻鏡』の1ヵ所以外にほとんど出てこないからだ。鎌倉の廃寺についての基本文献である『鎌倉廃寺事典』貫達人・川副武胤編(1980 有隣堂刊)では、
「ともかく、文応元年(1260)四月二十九日、大火事で長楽寺前から亀谷の人家に至るまで焼亡した、と『吾妻鏡』にみえているから、長楽寺谷に長楽寺があったことは明らかであろう。後考を俟つ。」
といっている(p.153)。
また、長楽寺が安養院の前身であり、北条政子が創建したということも安養院の寺伝にあるだけで、鎌倉時代の文献に記されていることではない。またその寺伝も年代的に矛盾するところがあり(奥富敬之『鎌倉史跡事典』安養院の項)、歴史的事実としては認められていない。
鎌倉には谷戸ごとに寺があったとされるが、その殆どは廃寺となり、宅地に変わっている。その点、この長楽寺跡は、明治以来、前田家別荘となったことによって宅地化を免れているので、さらに発掘地点を拡げれば、何らかの寺院跡であることが判明し、その規模や様子がわかるにちがいない。貴重な遺跡と言える。
例えば頼朝が建てたという勝長寿院も現在の大御堂谷にあったが廃寺となり、現在はすべて宅地化され発掘調査は不可能になっている。同じく頼朝の創建した永福寺は、跡地が宅地化寸前に保存され、発掘によってその建物の規模が判明した。
ところが、長楽寺跡については、鎌倉市はこの発掘はこれで終わり、埋め戻した上で、この地に鎌倉文学館付設の発券所と休憩所(カフェ)を建てるという。学術的調査とはほど遠い、場当たり的な調査でお茶を濁そうとしている。
北条政子の創建した寺、というのはロマンに終わるかもしれないが、少なくとも鎌倉時代の寺院がそっくり埋まっているという可能性が強い。そのような伝承のある遺跡の上にカフェを建て、調査はそれで終わってしまうというのは、鎌倉市民、中世の歴史に興味を持つ者としては、許されない。(2025/12/23記)
旧前田邸洋館前 解体をやめさせよう①2025年3月、鎌倉市が鎌倉文学館の構内にある旧前田家洋館を取り壊す予定であることが明らかになりました。この地は本館が前田家から鎌倉市に寄贈され、鎌倉文学館として利用されるようになってからもしばらくは前田家が使用していましたが、今から13年前に洋館・敷地ともに鎌倉に寄贈されました。戦後に建てられたものですが緑豊かな敷地に建てられた清楚な姿です。
ところが鎌倉市は寄贈されたにもかかわらず、保存・利用の手だてを怠り、今年になって急に文学館の改修に合わせて解体する、と言い出しました。市民有志の要望により、急遽8月に説明会が開催されましたが、そこで市民が目にしたのは荒れ果てた洋館の姿であり、強引に解体を進めようとする市(文化課)の姿勢でした。
前田邸洋館の正面。
左手の庭から見た洋館。
手入れされない庭は荒れ果てています。
手入れされていない室内。
すぐれた意匠の丸窓。
カフェ用地とされている洋館前の緑地。
鎌倉市が予定しているカフェの完成図。

市の担当者は、・この建物は文化財としては価値がない。・背後が崖であること、バリアフリーに出来ないこと、などから公共施設としては使用できない。・保存だけで高額な費用がかかる。などの理由で、取り壊しを決めた、といいます。
しかし、鎌倉市の貴重な財産である建物を、市民に知らせず、意見も聞かず、取り壊すというのは良いのでしょうか。しかも洋館の解体とあわせて前の緑地の樹木も伐採し、文学館来訪者のための発券所やカフェにする予定だと言います。それに対して、ちょっとまってよ、洋館を保存し、利用する道はないのか、考えようよ。という声がいま起こっています。
今泉・白山神社 大注連祭鎌倉・今泉の白山神社では、毎年1月8日に氏子の皆さんが、毘沙門天のお使いのムカデをかたどった大注連縄を張り替えます。町内の正月の大切な行事で、この注連縄が雨風で落ちなければ一年は良い年だったことになります。今年はどうなるでしょう。
氏子の皆さんが皆でムカデを綯います。

青竹にムカデを懸けます。

ムカデの脚をそろえる。

去年の注連縄やお札は燃やします。

炎と共に昨年の思い出は消える。

新しい大注連縄で今年も(は)良い年に!

円覚寺 洪鐘祭
北鎌倉駅前 出発点に向かう円覚寺管長横田南嶺師

小袋谷交差点から円覚寺向かう行列 先触れの太鼓

江ノ島の唐人囃子行列

蘇った唐人囃子

山ノ内八雲神社に伝わる面掛け行列

子どもたちが丹精込めた洪鐘の張型
子どもたちの武者行列

北鎌倉にこんなに人が集まった
どうなる市庁舎移転

2022/1/1 旧国鉄団地跡地
これは今年の1月1日、モノレール深沢駅ホームから撮影したもの。富士山の偉容は変わらないが、かつての国鉄アパートがあった一帯は建物がすべて撤去され、更地になっている。深沢再開発計画では大型商業施設などが誘致されることになるらしい。それが本決まりになるまでの間、鎌倉市はサッカー場として利用しようと言うことで、整備を進めた。元旦の今日は試合も練習も行われていない。
このあたり、国鉄の工場の前は日本軍の魚雷などを作る軍需工場だった。それ以前は広々とした湿地帯で集落、人家は無かった。「深沢」という地名から判るとおり、この地は柏尾川沿いに広がる低湿地帯だったのであり、最近までたびたび洪水で水没しているところである。
次の写真は、2020年1月5日、鎌倉市のモノレール深沢駅前にある、旧国鉄車両工場跡地を利用した、運動広場での一コマ。この頃はまだ、新型コロナウィールス感染は始まっておらず、正月休みの子供たちのラグビー練習が盛んに行われていた。この日は快晴で、富士山がよく見えていた。幾つかのチームが集まり、練習でぶつかり合い、大きな声を張り上げている。
この地は今持ち上がっている深沢再開発計画では鎌倉市役所が移転してくることにんっている。運動広場の子供たちの歓声は、どこにいってしまうのだろか。

2020/1/5 深沢運動広場
景観も公共の財産

2016/4/4(1) 北鎌倉洞門
4月4日11時30分頃、北鎌倉駅下りホームから、緑の洞門を見ると、鎌倉市による「緑の洞門」破壊作業がちょうど始まろうとしていた。北側入口ではまさにフェンスの作業中で、市の職員とおぼしき人に指示された「斉藤建設」というロゴの入った作業服を着た作業員が盛んに組みたてしていた(写真1)。南側入口では、「守る会」とおぼしき人たちが、盛んに工事のいったん中止を訴えていた。

2016/4/4(2) 北鎌倉洞門
聞けば、鎌倉市は4月4日を期して、トンネル撤去工事に着手、まず作業用のフェンスを設置するとのことであった。「守る会」の皆さんは、トンネルと周辺の景観を損なうことなく、安全性や利便性も確保できる方法もあるのだから、急いで結論を出さず、話し合いを継続してほしい、そのために当面の工事を延期してほしいと盛んに訴えていた(写真2)。しかし市の職員は、今日からの工事着手はすでに決まったことだからとの一点張りで、工事を邪魔しないでほしいという。

2016/4/4(3) 北鎌倉洞門
「守る会」の皆さんに、がんばれと声をかけ、その場を離れた。気になっていたので、用事を済ませて5時過ぎに北鎌倉に戻り、再び現場に行ってみた。すでに市職員と守る会の双方も姿はなく、マスコミの取材だという言う一人がカメラを回していた(写真3)。しばらくして、もう一人若い人が来た。かれは「守る会」の立てた看板を指さし、撤去してほしいという。聞いてみると、すぐ近くに住んでいて、一日も早くこのトンネルを壊してほしいという。「たくさんの住民がそう思っているのに、いかにもこの辺りの住民全部がトンネルを守れ、と言っているように誤解されているのが悔しい」のだ、と。
たしかに保存してほしいという住民だけではない。トンネル北側の住民や墓地関係者は、車が入るようになった方が便利だろう。その声は無視できない。しかし、文化財や景観もまた市民の共通の財産だ。しかもいったん破壊されたら修復は不可能な財産だ。より高い公共性をもつ文化財や景観の保全と、地域住民の安全や利便性が対立した場合、そのどちらかだけが犠牲になるのではなく、双方に納得のいく「妥協点」を探らざるを得ないのではないだろうか。鎌倉市は、その丁寧な手続きを放棄してしまっている。(2016/4/4)
安全か景観か

2015/4/24 北鎌倉洞門
北鎌倉駅裏の小さなトンネル、通称「緑の洞門」の問題がいよいよ最終局面のようだ。鎌倉市は昨年4月28日、この洞門は崩落の危険があるので、近隣住民と通学に利用する学生の安全のために開削するとして通行を禁止した。市議会では予算が可決され、3月中にも工事着手と言われている。
それに対して、北鎌倉の貴重な景観を守るべきである運動が起こり、今も懸命にトンネルを守ろうとしている。2月13日に守る会の主催した学習会に参加し、中世史専攻の高橋愼一朗氏、考古学の馬淵和雄氏などの話を聞いた。両氏の話は、この洞門は円覚寺の結界を示し、中世鎌倉の境界とされていたということでは一致していた。
特に馬渕さんの、頼朝開府以前の道は朝比奈から十二所を通り、八幡宮のできる前の源平池の辺りを横切り、源義朝の館のあった現寿福寺前から海蔵寺の裏山を越え(今も頼朝が開こうとした切通の跡がはっきり残っている)、瓜が谷を下り、横須賀線が通るまではあの洞門の岩塊が延びていた今の十王堂橋に出たのではないか、という話が興味深かった。
円覚寺の古図には、十王堂橋のところに「篝屋(かがりや)跡」とあり、京都と同じような市中警護のための篝屋があったらしい。
今のトンネルは、いつ誰が掘ったか判らず、近代以降のものであるので、それ自体に価値はないが、鎌倉にとって歴史的に重要な位置にあることは確かである。また鶴見大学の伊藤正義さんは、現在の技術ではトンネルの崩落を防ぐことは十分可能で、逗子市が行った名越切通の整備ですでに証明済みだといっていた。
しかし、鎌倉市当局は聞く耳を持たないという。レイウェル鎌倉の閉鎖の時もそうだったが、彼らの行政マニュアルには「安全」と「財源」という言葉しかないらしい。「景観の保護」、「文化遺産の伝承」、「市民の豊かな文化的生活」などの概念は初めから頭になさそうだ。今までも多くのやぐらや地下遺構が道路や宅地造成で失われてきた。有名な釈迦堂トンネルは通行不可のまま放置されている。
何を今更、と言われるかもしれないが、失われた地形は二度と戻らない。2月17日には学習センター地下で開かれている「写真家の記録した鎌倉」を見たが、昭和40年代以降の開発のすさまじさを伝える、息をのむばかりの写真がならんでいた。この小さなトンネルが、最後に残った鎌倉らしい景観となってしまうかもしれない。

2015/5/2 北鎌倉洞門
日和下駄で、こうもり傘を手に、東京を歩きまわった永井荷風は、大正の初め、つまり百年前の東京の変貌をこんな風に嘆いている。
「・・・電線を引くに不便なりとて遠慮会釈もなく路傍の木を伐り、又は昔からなる名所の眺望や由緒ある老樹にも構わず無闇矢鱈に赤煉瓦の高い家を建てる現代の状態は、実に根底より自国の特色と伝来の文明とを破却した暴挙と云わねばならぬ。この暴挙あるが為に始めて日本は二十世紀の強国となったというならば、外観上の強国たらんが為に日本は其の尊き内容を全く犠牲にしてしまったものである。」<講談社文芸文庫 p.43>
鎌倉が「文化都市」と云えるのかどうか、またこれからもそう言えるのか、この小さなトンネルが問いかけている。(2016/2/22)

しっかりと整備されている名越切通の逗子側 2015/1/31

2013年12月24日 若宮大路
あこがれの(?)年金生活ではありましたが、いざ始まってみると、依然として世事に追われ、おまけに年金者組合のあれこれの活動におつきあいを始めたためか、いっこうにのんびり旅行を楽しむなどという境地ではありません。思い知らされたのが、年金だけでは生活できないということ。その年金がこれから減らされていくとあっては心細いかぎりです。
せめて鎌倉に住んでいるという利点を生かして、神社仏閣を訪ね、草花や風景を愛でたいと思い立ち、歩きまわっています。歩きながら見たこと、聞いたことを、この場を借りてブログ風につづっていきたいと思います。お手本は、永井荷風の『日和下駄』(一名東京散策記)。
もっとも現今の鎌倉は、のんびりと散策を楽しむには適していない。世界遺産の選に漏れたにもかかわらず、いつも鎌倉駅周辺は観光客が溢れ、落ち着きがない。それよりもなによりも、歩いていると今の鎌倉市政の混乱ぶりが伝わってくる。年金削減だ、戦争法だと国政もとんでもない方に向かっている。どうやら荷風先生のようなしゃれた散歩はできそうにもない。
さて、このページをご覧の鎌倉支部の皆さん、そしてたまたまお訪ねいただいたどなたでも、鎌倉でこんなところがあったよとか、こんな話を聞いたよ、などなど情報があったらお知らせ下さい。(2016.2.22 公平記)

上町屋 泉光院に近い街角