旧前田邸洋館前 解体をやめさせよう②鎌倉市は9月から長谷の旧前田邸洋館前の緑地で発掘調査を実施しました。11月16日、現地で鎌倉市による説明会が午前、午後に分けて行われたので、午前の部に参加しました。発掘地点は洋館前の緑地の樹木を伐採し、A・Bの2地点で行われました。
A地点の全景。正面が旧前田邸洋館。
A地点から東側(奥)を見る。この先にB地点がある。
手前に伐採された樹木が見える。
A地点に見られる、版築の様子。
版築とは、建物を建てるための地ならし作業のことで、写真で判るように薄く何層も版築作業が行われたことが判る。相当な手間をかけて作った建物があったことをうかがわせる。
A地点は、市がカフェを建設する予定地で、予定建物の範囲のみを発掘している。担当者との説明では、見えている地面が鎌倉時代のものという。これ以上掘り下げたり、範囲を拡げる予定はない。
B地点の全景。
B地点で出土した柵列。
柵列はB地点を斜めに横切っており、等間隔の大きな柱穴と小さな柱穴が並んでいる。おそらく建物の周囲にめぐらされた塀のような建造物があったのであろう。そのどちら側が構内なのかはにわかに判定できない。地点Aに見られる二本の溝と、ほぼ直角に交わっていたことが想定される。。
B地点は、A地点の東側に並んでおり、市の計画では文学館入場者のための発券所などの事務棟を建設する予定地という。かつてここは、文学館へのエントランスに面した、樹木の茂る緑地だった。隣接するカフェとあわせたモダンな建物になるようだが、はたしてこの景観に合うのだろうか。文学館事務棟が必要なら、現在ある旧前田邸洋館を利用すれば良いのに・・・。
発掘地点からは青磁の破片や土器、瓦の破片が出土したが、いすれもこの遺跡が寺院跡であることの証明になる物はなかった。
この地は古い地名で「長楽寺谷」といわれ、一般に現在大町にある安養院の前身の「長楽寺」があったとされている。今回の発掘では、長楽寺跡であるという確証は得られていない。鎌倉市の説明会でも発掘担当者は「長楽寺跡」とは明言しなかった。
はたして長楽寺跡かどうかは、現在のところ文献上でも判明していない。鎌倉時代の文献には『吾妻鏡』の1ヵ所以外にほとんど出てこないからだ。鎌倉の廃寺についての基本文献である『鎌倉廃寺事典』貫達人・川副武胤編(1980 有隣堂刊)では、
「ともかく、文応元年(1260)四月二十九日、大火事で長楽寺前から亀谷の人家に至るまで焼亡した、と『吾妻鏡』にみえているから、長楽寺谷に長楽寺があったことは明らかであろう。後考を俟つ。」
といっている(p.153)。
また、長楽寺が安養院の前身であり、北条政子が創建したということも安養院の寺伝にあるだけで、鎌倉時代の文献に記されていることではない。またその寺伝も年代的に矛盾するところがあり(奥富敬之『鎌倉史跡事典』安養院の項)、歴史的事実としては認められていない。
鎌倉には谷戸ごとに寺があったとされるが、その殆どは廃寺となり、宅地に変わっている。その点、この長楽寺跡は、明治以来、前田家別荘となったことによって宅地化を免れているので、さらに発掘地点を拡げれば、何らかの寺院跡であることが判明し、その規模や様子がわかるにちがいない。貴重な遺跡と言える。
例えば頼朝が建てたという勝長寿院も現在の大御堂谷にあったが廃寺となり、現在はすべて宅地化され発掘調査は不可能になっている。同じく頼朝の創建した永福寺は、跡地が宅地化寸前に保存され、発掘によってその建物の規模が判明した。
ところが、長楽寺跡については、鎌倉市はこの発掘はこれで終わり、埋め戻した上で、この地に鎌倉文学館付設の発券所と休憩所(カフェ)を建てるという。学術的調査とはほど遠い、場当たり的な調査でお茶を濁そうとしている。
北条政子の創建した寺、というのはロマンに終わるかもしれないが、少なくとも鎌倉時代の寺院がそっくり埋まっているという可能性が強い。そのような伝承のある遺跡の上にカフェを建て、調査はそれで終わってしまうというのは、鎌倉市民、中世の歴史に興味を持つ者としては、許されない。(2025/12/23記)
旧前田邸洋館前 解体をやめさせよう①2025年3月、鎌倉市が鎌倉文学館の構内にある旧前田家洋館を取り壊す予定であることが明らかになりました。この地は本館が前田家から鎌倉市に寄贈され、鎌倉文学館として利用されるようになってからもしばらくは前田家が使用していましたが、今から13年前に洋館・敷地ともに鎌倉に寄贈されました。戦後に建てられたものですが緑豊かな敷地に建てられた清楚な姿です。
ところが鎌倉市は寄贈されたにもかかわらず、保存・利用の手だてを怠り、今年になって急に文学館の改修に合わせて解体する、と言い出しました。市民有志の要望により、急遽8月に説明会が開催されましたが、そこで市民が目にしたのは荒れ果てた洋館の姿であり、強引に解体を進めようとする市(文化課)の姿勢でした。
前田邸洋館の正面。
左手の庭から見た洋館。
手入れされない庭は荒れ果てています。
手入れされていない室内。
すぐれた意匠の丸窓。
カフェ用地とされている洋館前の緑地。
鎌倉市が予定しているカフェの完成図。

市の担当者は、・この建物は文化財としては価値がない。・背後が崖であること、バリアフリーに出来ないこと、などから公共施設としては使用できない。・保存だけで高額な費用がかかる。などの理由で、取り壊しを決めた、といいます。
しかし、鎌倉市の貴重な財産である建物を、市民に知らせず、意見も聞かず、取り壊すというのは良いのでしょうか。しかも洋館の解体とあわせて前の緑地の樹木も伐採し、文学館来訪者のための発券所やカフェにする予定だと言います。それに対して、ちょっとまってよ、洋館を保存し、利用する道はないのか、考えようよ。という声がいま起こっています。
今泉・白山神社 大注連祭鎌倉・今泉の白山神社では、毎年1月8日に氏子の皆さんが、毘沙門天のお使いのムカデをかたどった大注連縄を張り替えます。町内の正月の大切な行事で、この注連縄が雨風で落ちなければ一年は良い年だったことになります。今年はどうなるでしょう。
氏子の皆さんが皆でムカデを綯います。

青竹にムカデを懸けます。

ムカデの脚をそろえる。

去年の注連縄やお札は燃やします。

炎と共に昨年の思い出は消える。

新しい大注連縄で今年も(は)良い年に!

円覚寺 洪鐘祭
北鎌倉駅前 出発点に向かう円覚寺管長横田南嶺師

小袋谷交差点から円覚寺向かう行列 先触れの太鼓

江ノ島の唐人囃子行列

蘇った唐人囃子

山ノ内八雲神社に伝わる面掛け行列

子どもたちが丹精込めた洪鐘の張型
子どもたちの武者行列

北鎌倉にこんなに人が集まった
どうなる市庁舎移転

2022/1/1 旧国鉄団地跡地
これは今年の1月1日、モノレール深沢駅ホームから撮影したもの。富士山の偉容は変わらないが、かつての国鉄アパートがあった一帯は建物がすべて撤去され、更地になっている。深沢再開発計画では大型商業施設などが誘致されることになるらしい。それが本決まりになるまでの間、鎌倉市はサッカー場として利用しようと言うことで、整備を進めた。元旦の今日は試合も練習も行われていない。
このあたり、国鉄の工場の前は日本軍の魚雷などを作る軍需工場だった。それ以前は広々とした湿地帯で集落、人家は無かった。「深沢」という地名から判るとおり、この地は柏尾川沿いに広がる低湿地帯だったのであり、最近までたびたび洪水で水没しているところである。
次の写真は、2020年1月5日、鎌倉市のモノレール深沢駅前にある、旧国鉄車両工場跡地を利用した、運動広場での一コマ。この頃はまだ、新型コロナウィールス感染は始まっておらず、正月休みの子供たちのラグビー練習が盛んに行われていた。この日は快晴で、富士山がよく見えていた。幾つかのチームが集まり、練習でぶつかり合い、大きな声を張り上げている。
この地は今持ち上がっている深沢再開発計画では鎌倉市役所が移転してくることにんっている。運動広場の子供たちの歓声は、どこにいってしまうのだろか。

2020/1/5 深沢運動広場
景観も公共の財産

2016/4/4(1) 北鎌倉洞門
4月4日11時30分頃、北鎌倉駅下りホームから、緑の洞門を見ると、鎌倉市による「緑の洞門」破壊作業がちょうど始まろうとしていた。北側入口ではまさにフェンスの作業中で、市の職員とおぼしき人に指示された「斉藤建設」というロゴの入った作業服を着た作業員が盛んに組みたてしていた(写真1)。南側入口では、「守る会」とおぼしき人たちが、盛んに工事のいったん中止を訴えていた。

2016/4/4(2) 北鎌倉洞門
聞けば、鎌倉市は4月4日を期して、トンネル撤去工事に着手、まず作業用のフェンスを設置するとのことであった。「守る会」の皆さんは、トンネルと周辺の景観を損なうことなく、安全性や利便性も確保できる方法もあるのだから、急いで結論を出さず、話し合いを継続してほしい、そのために当面の工事を延期してほしいと盛んに訴えていた(写真2)。しかし市の職員は、今日からの工事着手はすでに決まったことだからとの一点張りで、工事を邪魔しないでほしいという。

2016/4/4(3) 北鎌倉洞門
「守る会」の皆さんに、がんばれと声をかけ、その場を離れた。気になっていたので、用事を済ませて5時過ぎに北鎌倉に戻り、再び現場に行ってみた。すでに市職員と守る会の双方も姿はなく、マスコミの取材だという言う一人がカメラを回していた(写真3)。しばらくして、もう一人若い人が来た。かれは「守る会」の立てた看板を指さし、撤去してほしいという。聞いてみると、すぐ近くに住んでいて、一日も早くこのトンネルを壊してほしいという。「たくさんの住民がそう思っているのに、いかにもこの辺りの住民全部がトンネルを守れ、と言っているように誤解されているのが悔しい」のだ、と。
たしかに保存してほしいという住民だけではない。トンネル北側の住民や墓地関係者は、車が入るようになった方が便利だろう。その声は無視できない。しかし、文化財や景観もまた市民の共通の財産だ。しかもいったん破壊されたら修復は不可能な財産だ。より高い公共性をもつ文化財や景観の保全と、地域住民の安全や利便性が対立した場合、そのどちらかだけが犠牲になるのではなく、双方に納得のいく「妥協点」を探らざるを得ないのではないだろうか。鎌倉市は、その丁寧な手続きを放棄してしまっている。(2016/4/4)
安全か景観か

2015/4/24 北鎌倉洞門
北鎌倉駅裏の小さなトンネル、通称「緑の洞門」の問題がいよいよ最終局面のようだ。鎌倉市は昨年4月28日、この洞門は崩落の危険があるので、近隣住民と通学に利用する学生の安全のために開削するとして通行を禁止した。市議会では予算が可決され、3月中にも工事着手と言われている。
それに対して、北鎌倉の貴重な景観を守るべきである運動が起こり、今も懸命にトンネルを守ろうとしている。2月13日に守る会の主催した学習会に参加し、中世史専攻の高橋愼一朗氏、考古学の馬淵和雄氏などの話を聞いた。両氏の話は、この洞門は円覚寺の結界を示し、中世鎌倉の境界とされていたということでは一致していた。
特に馬渕さんの、頼朝開府以前の道は朝比奈から十二所を通り、八幡宮のできる前の源平池の辺りを横切り、源義朝の館のあった現寿福寺前から海蔵寺の裏山を越え(今も頼朝が開こうとした切通の跡がはっきり残っている)、瓜が谷を下り、横須賀線が通るまではあの洞門の岩塊が延びていた今の十王堂橋に出たのではないか、という話が興味深かった。
円覚寺の古図には、十王堂橋のところに「篝屋(かがりや)跡」とあり、京都と同じような市中警護のための篝屋があったらしい。
今のトンネルは、いつ誰が掘ったか判らず、近代以降のものであるので、それ自体に価値はないが、鎌倉にとって歴史的に重要な位置にあることは確かである。また鶴見大学の伊藤正義さんは、現在の技術ではトンネルの崩落を防ぐことは十分可能で、逗子市が行った名越切通の整備ですでに証明済みだといっていた。
しかし、鎌倉市当局は聞く耳を持たないという。レイウェル鎌倉の閉鎖の時もそうだったが、彼らの行政マニュアルには「安全」と「財源」という言葉しかないらしい。「景観の保護」、「文化遺産の伝承」、「市民の豊かな文化的生活」などの概念は初めから頭になさそうだ。今までも多くのやぐらや地下遺構が道路や宅地造成で失われてきた。有名な釈迦堂トンネルは通行不可のまま放置されている。
何を今更、と言われるかもしれないが、失われた地形は二度と戻らない。2月17日には学習センター地下で開かれている「写真家の記録した鎌倉」を見たが、昭和40年代以降の開発のすさまじさを伝える、息をのむばかりの写真がならんでいた。この小さなトンネルが、最後に残った鎌倉らしい景観となってしまうかもしれない。

2015/5/2 北鎌倉洞門
日和下駄で、こうもり傘を手に、東京を歩きまわった永井荷風は、大正の初め、つまり百年前の東京の変貌をこんな風に嘆いている。
「・・・電線を引くに不便なりとて遠慮会釈もなく路傍の木を伐り、又は昔からなる名所の眺望や由緒ある老樹にも構わず無闇矢鱈に赤煉瓦の高い家を建てる現代の状態は、実に根底より自国の特色と伝来の文明とを破却した暴挙と云わねばならぬ。この暴挙あるが為に始めて日本は二十世紀の強国となったというならば、外観上の強国たらんが為に日本は其の尊き内容を全く犠牲にしてしまったものである。」<講談社文芸文庫 p.43>
鎌倉が「文化都市」と云えるのかどうか、またこれからもそう言えるのか、この小さなトンネルが問いかけている。(2016/2/22)

しっかりと整備されている名越切通の逗子側 2015/1/31

2013年12月24日 若宮大路
あこがれの(?)年金生活ではありましたが、いざ始まってみると、依然として世事に追われ、おまけに年金者組合のあれこれの活動におつきあいを始めたためか、いっこうにのんびり旅行を楽しむなどという境地ではありません。思い知らされたのが、年金だけでは生活できないということ。その年金がこれから減らされていくとあっては心細いかぎりです。
せめて鎌倉に住んでいるという利点を生かして、神社仏閣を訪ね、草花や風景を愛でたいと思い立ち、歩きまわっています。歩きながら見たこと、聞いたことを、この場を借りてブログ風につづっていきたいと思います。お手本は、永井荷風の『日和下駄』(一名東京散策記)。
もっとも現今の鎌倉は、のんびりと散策を楽しむには適していない。世界遺産の選に漏れたにもかかわらず、いつも鎌倉駅周辺は観光客が溢れ、落ち着きがない。それよりもなによりも、歩いていると今の鎌倉市政の混乱ぶりが伝わってくる。年金削減だ、戦争法だと国政もとんでもない方に向かっている。どうやら荷風先生のようなしゃれた散歩はできそうにもない。
さて、このページをご覧の鎌倉支部の皆さん、そしてたまたまお訪ねいただいたどなたでも、鎌倉でこんなところがあったよとか、こんな話を聞いたよ、などなど情報があったらお知らせ下さい。(2016.2.22 公平記)

上町屋 泉光院に近い街角